2017年10月26日木曜日

承認欲求をそんなに否定しないであげて〜!

最近、Facebookのフィードが一時期に比べてつまらなくなった気がする。

大量の企業広告、投稿する人の固定化、全く知らない人達が友達候補として出てくるなど、我々がそこまで強くは求めていない情報で溢れているからだ。
友達が何を考えているのかとかは、地方にいると、割と気になったりするものだから少し残念。

時間は有限である。
ただでさえ、色々な情報に触れることが容易になったご時世である。
Kindle本、ほぼ無料のPrime video、Instagram、Twitter,400円で読み放題の雑誌サイト、著名人の投稿、Newspicks、ライン、メールなど。

これらを見ることができる時間に、つい癖で、Facebookのアプリを立ち上げて、わざわざ広告で溢れるフィードを見てしまう。
これほど無駄なことをしてしまったと後悔する体験はない。

SNSの本質は人と人とが、相互にコミュニケーションしてこそ真価が発揮される。
せっかく世界中で使われる便利なインフラになったFacebook。
米Facebookは広告収入で経営好調のようで、余計なお世話だが、この先がちょっと心配だ。

Facebook側の問題はさておき、我々日本人の意識もかわるといいのになーと思う。
今回のテーマは、承認欲求をもっと認めてもいいんじゃないか?ということ。

最近、Twitter界隈では、承認欲求が高い人をバカにしたり、それをバカにすること自体がさらに承認欲求が高いのでは?、いやそう書いている時点で承認欲求が高いでしょ、など囚人のジレンマではないが、誰も得しない議論が延々と続くようすを見かけた。

とあるいい感じのベンチャー企業では、承認欲求が強くないことを求める人物像にあげてた。(これには理由があって、マズローが言う、承認欲求よりも高次に位置する自己実現欲求を満たしたい人を欲しているからだそうで、それはそれで考え方は自由だ)

また、Facebookでちょっと長めの投稿をする人、スタバでMacを触っている人を見ると、意識が高いだのとバカにされてしまう方もまだまだ多いように思う。
(もしかしたら、自身の埋もれた承認欲求を昇華するためにバカにしているのかも?)

タテ(歴史)・ヨコ(他国)比較をすると、結局、今も昔も”私はすごい!”ってみんな認めてもらいたかったわけですよね。あんまりお互い牽制し合わなくてもいいのにな〜と思う。

”虚栄の市”っていう英国ヴィクトリア朝時代の小説があるのですが、登場人物の99%に虚栄心があって、皆、”僕はすごい”って思われたそうに振舞っていた。
要はこれだけ普遍的な欲求なんです。かつ、誰に迷惑をかけるわけでもないわけだから、もっと承認欲求全開でもいいんじゃないかな〜。

だから、今日こんなことがあったよとかもっとみんな書いて、結果として、いいね!しあう世の中でもいいと思うけど、違うかしら。

高校生の時、あんまり取り柄がなかった筆者は、学校でクラスのみんなにすごいと思ってもらいたくて、英語のテスト対策だけ徹夜するなどして頑張って100点とったりした。
当時、承認欲求なんて言葉はあまり聞かなかったけれど、この2017年に筆者が高校生だったらその言葉に萎縮して、承認欲求を隠して、今、英語が喋れなかったかもしれない。やっぱ悪くないことじゃん。

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